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[リンク記事]【翻訳記事】「韓国の独裁政権と日本政府は共犯関係」
category: - | author: conflictive.info
[リンク記事]

長い記事で論点も多岐にわたるが、大変勉強になる。脱原発運動の全体的な評価も妥当であると思う。比べてどうこうという話ではないので引き合いに出すのは気が引けるが、たとえばこれと少し前の人民新聞の酒井隆史氏へのインタビューと合わせて読んでみれば、酒井氏の「ポピュリズム」論や脱原発運動評価の粗雑さには、やはり嘆息せざるを得ないものがある。名目ではなく実質として、突出したネオリベ・極右だけではなく日本社会の全般的右傾化に抗していくためには、そういった現状の日本の批判的知識人のありようももっと積極的に議論の俎上に載せていく必要がある。

(補足) 2012/12/18 それにしても、言葉を切り取るようで悪いが、上記の酒井氏のインタビューに出てくる「いま、民主主義は機能疾患に陥っています。」「このままだと最終的に、民主主義を食いつぶされる恐れがあります。」という言葉はいったい何を意味しているのであろうか(インタビューという形式や紙面のスペースの都合などでいろいろ細かい部分を説明することができない事情はあったかもしれないとしても)。原発体制にしろ橋下にしろ(あるいはその記事では酒井氏が指摘しない脱原発運動の「盛り上がり」が合わせ持つ克服されざる排外主義的ナショナリズムや「国民」主義の問題にしろ)、これまでの日本の「民主主義」の帰結と考えるのが自然だとおもうのだが・・・。少なくともこのインタビューでは、あたかも<昔は>民主主義が(まともに)機能していたかのように言うことによって、酒井氏が「戦後民主主義」批判といった視点を大きく欠落させるところにまで来ていたということは言えそうである。今回紹介するリンク先の権赫泰氏へのインタビュー記事では、権赫泰氏がいう戦後日本における「平和主義」(平和、民主主義、経済成長)の背景についても、批判的な立場から詳細に論じられている(「日本社会は平和主義が特殊な条件下で作動したものだという事実を知らなかったり、あるいは認めずに、平和主義の果実だけをもいで食った側面がある」)。

なお、現代帝国主義(およびその左派)における「民主主義」イデオロギーのありようについては、「民主主義か反帝国主義か」も序論的にではあるが大きな視野から論じていて参考になる。たとえば、以下の指摘など。

「しかしその一方で、いまでは「左派歴史修正主義」も顕著な傾向になっていると言える。いまや戦後日本の「問いなおし」の大半は、戦後体制の戦前との連続性の解明といった課題に取り組むのではなく、「見なおしてみたら実はいろいろな可能性があった」式のたんなる希望的な再評価に後退しているようだ(日帝のアジア主義を欧米帝国主義と対決する理念として救済してみたり、戦後民主主義を「昔の日本人は抵抗していた」とベタに評価してみたり)。そのような傾向は、日本人を皇国臣民ではなく抵抗する人民として見なそうとする欲望をくすぐることにしか寄与するまい。」

(以上、(補足)の部分は一部修正のうえ書き足した。2012/12/19)

管理人・嶋田頼一

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【翻訳記事】「韓国の独裁政権と日本政府は共犯関係」

http://sgwse.dou-jin.com/Entry/468/

「3.11以降既存の秩序が変化すべきという考えは増えたが、集会に10万人集まろうがなかろうがその間に具体的な政治行為として現れた痕跡は見つける事が出来ない。この流れが左側に行かず反対側に進んでおり、その上に覆い被さっているのは国難克服の物語(narrative)だ。続いて思い出されるのが1945年の敗戦状況だ。ナショナリズムの物語が再構成されている。

もちろん幸いなのは眠っていた人々がデモをするという事実だ。柄谷行人は日本がデモをする社会に変わらねばならないと言い、デモをして何が変わるかよりもデモそのものが重要だと言った。私もそこまでは認める。だがその流れが既存の政治的右傾化の流れを変えられるかに対しては否定的だ。」
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[リンク記事]人道的介入と帝国主義文明の左翼
category: - | author: conflictive.info
[リンク記事]

(本文の一部に関連して少し書いておくと、第三世界のナショナリズム(やポピュリズム)を一概に否定せず評価する代わりに、帝国主義本国における排外主義以外の何者でもないナショナリズム(やポピュリズム)をも、反新自由主義の名目で受け入れるか連帯の対象であるかのように主張するいわゆる「リベラル・左派」や左翼が、とくにオキュパイ運動や日本の脱原発運動の「盛り上がり」以降増加しているように思うのでそれにも注意しなければならないであろう。管理人・嶋田頼一)

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人道的介入と帝国主義文明の左翼/Tim Anderson
resistenciahonduras.net 2012年4月11日

多くの「北側諸国の左翼」が帝国主義に協力しているように見えるのはなぜであろうか。新しく「人道的介入」が提起されるたびに、「体制変革」のコーラスに加わりながら。

おそらく、それは「体制に埋め込まれた左翼」(たとえば労働運動左翼やその周辺)として理解できるであろう。帝国主義と生死を共にすることによって、わずかな社会保障とともに、より「フレンドリー」で、より「緑」な資本主義をつくることができると想像しているのであろうか。しかし、どうして社会主義者たちははっきりと協力しているのであろうか。

ある人が最近不満を述べていた。イラクでの悲劇の後に「私が深くショックを受けたのは、平和運動に献身していた人々が、それが市民を保護するであろうという理由で米国主導の新たな戦争を支持するという罠にはまっていることだ」。他の人は言う。「それは、今日はシリア、明日はイランというように決して終わりがない」。

実際、左翼、とりわけ帝国主義文明のなかにいる左翼による捏造された反乱に対する反応、またリビアやシリアへのモラルパニックに対する反応は混乱を極めたものとなっている。イラク侵略に反対していた人々の一部は今や「体制変革!」、または「外国の軍事介入抜きの体制変革!」、または「よりましな悪としての軍事介入」などと言っているのである。

北側左翼は高い道徳的立場を取ることが好きなのであるが、かれらの問題は、帝国主義外交や企業メディアが矢継ぎ早の攻勢によってつくった、世界が目撃しているなかで(リビアであれシリアであれイランであれ)「独裁者」が「自国民」を殺しているという物語を前提にしていることである。しかし現実はより薄汚れたものであり、帝国主義国の秘密作戦、イスラム原理主義者の反乱や国内反動といったものなのである。

しかし、どのケースにおいても、準独立国家―すなわち地域支配の妨げになる諸体制―を不安定化させるために、大国にはお気に入りの派閥を武装化させるだけでなく「敵の敵」を武装化させてきたという歴史がある。

米国とその同盟国は、何十年にも渡ってその地域の国々の派閥を武装化させてきたのである。最近このことを理解したある控えめな介入主義者は、彼が当初リビアに抱いていた前提に疑問を覚えた。「カダフィによる抗議運動への暴力が反乱を生んだのか、反乱が大規模な政府の暴力を生んだのか」。実際NATOによって武装化されたリビアにおける反乱は何週間も秘密にされていたのである。

もちろん、「政府が市民を攻撃している」という言説は、政府が外国に支援を受けたテロリズムを取り締まっているという言説とは両立しない。モラルパニックと体制転換への支持が成り立たなくなるからである。

ラテンアメリカの米州ボリバル同盟(ALBA)のアプローチは理にかなったものである。それはシリア危機について次のように述べる。

「強制的な体制変革を目的として、私たちの姉妹国であるシリア・アラブ共和国に対して行われている組織的な介入と不安定化政策を[私たちは拒否する]。私たちは、諸外国に支援を受けた非正規兵によるシリア人民に対する武装暴力を非難する。シリア人民の主権と領土の保全を尊重し、現在の危機に対して平和的解決を見つけるべくバーシャル・アル・アサド大統領が進めている改革と国民的対話を[私たちは支持する]。」(カラカス、2月5日)

ここで焦点を当てられているのは、あらゆる方法で人民の自決権の発展を効果的に破壊する外国の軍事介入に関してである。

対照的なのは、ある北側左翼の「極左派」から出た声明である。それは米州ボリバル同盟を支持し、帝国主義国の介入に反対するものである。しかし、シリアが戦争の危機に瀕している時点においてなお、かれらは次のように訴える。

「[私たちの集団は]独裁者アサドに対するシリア人民の民主的な反乱に心からの連帯を表明する。また、西側帝国主義国による干渉と軍事介入による脅迫を非難する。・・・私たちは、シリア政権による抗議運動に対する軍事的弾圧と、退陣というシリア人民の願いを拒否するアサドを非難する。」

ここでのかれらのおもな論点は、シリア政権に対する非難であり、外国の軍事介入抜きではあるが、それに代わる体制はどのようなものであるかは定かではない「体制変革」の呼びかけである。

これらの声明には二つの大きな違いがある。一つ目は、米州ボリバル同盟が優先しているのは、明確に外国の介入に反対し、民主的プロセスを支持することである一方、その「極左派」の声明は、新しいものではあるがそれゆえにそれがどのようなものかは分からない革命に対する自身の熱狂に依拠しながら、これを守るために第二の主張として外国の軍事介入に反対するということをやっているのである。

二つ目の違いは関連するものであるが、単なる「外交用の言葉遣い」以上のものである。アサド政権を支持する米州ボリバル同盟の声明は、シリアの体制のあり方について賛成や同意を行うものではない。それは単純に、シリア国民に代表される政権への支持と敬意を示しているのである。米州ボリバル同盟自体が多様な体制を持つ国家で構成されている。実際ラテンアメリカは異なった体制を受け入れ尊重する長い歴史があるのである。一方で「北側の左翼」は、しばしば自らの高い理想の要求に合致しない「社会主義的でない」体制を不適格とみなし擁護しようとはしないのである。

ラテンアメリカの指導者たちは、非同盟運動の「姉妹国」のいくつかの国のあり方について、独自の考えや保留点を持っていることであろう。しかし、かれらは、危機の最中において、しかもそこに帝国主義勢力が加わっている際に、それを表明したりはしないのである。

一方でその「極左派」は、(危機とプロパガンダ戦争の最中に)シリア政権に対する激しい批難を危機に関する声明に盛り込む。結果はよくて混乱したものである。実際、その声明は、帝国主義国による「体制変革」に道徳的な支持を与えるものとなる。帝国主義国は、小左翼集団からの注意や戦略アドバイスを気にかけることはなく、ただ体制変革への支持が欲しいだけなのである。

私には、その「極左派」の声明における混乱には特有の理由があり、これらは帝国主義社会における左翼の経験と多く関係あるものと思われる。

「南」(旧植民地)の左翼は反帝国主義によって団結し、独立した国民国家を建設することに焦点を当てた。かれらは、独立に向かって高い犠牲を払いながらも、国家主権と民族自決の原則を強く支持した。国家への闘いは、難航を極める一方で、いまだ息づいているのである。

「北」の左翼は国家と帝国主義に関して、異なったアプローチを展開し、異なった声音で話すことを学んだ。それは「近代主義的」なものであり(自らが模範であり普遍的な道筋であると想像しながら)、他者がなすべきことを自らが指示するという帝国主義的態度で話すことを当然だと思っているのだ。彼らは結局「かれらの経験は自分たちのものと似たようなものだ」と想像するのである。同時に、軍事介入と新植民地主義体制の経験がないので、その危険性を低く見積もってしまうのである。

北側で発展した歪んだ国家観は、国家が帝国主義に組み込まれるにつれて、まったく自律性を持たないものとなった。さらに、旧植民地における独立的な愛国心に対して、帝国主義文明におけるナショナリズムはほとんどの場合排外主義である。このことと北側の「近代主義」を結びつけることによって、私たちはなぜ「北側」左翼がすべてのナショナリズムを非難し、国家への民衆的な闘いを拒否するのか理解できる。明白に醜いことではあるが、このような北側左翼は準独立国家など、それがどのような達成を行ったものであれ少しも尊重などしていない。しかしそれらの国々とその控えめな達成は、他の人々の所有物なのである。

そのような帝国主義的態度と、ネオトロツキズム(またはレーニン主義)、およびその独り善がりと「党建設への熱情」を結び付けてみれば、私たちはそこに、北側左翼の不快で、独断的で戦術なき干渉の原因を見ることができる。かれらの高邁な「社会主義」の理想に適うものはなにもなく、かれら自身でつくったものもなにもないので、何も守るべきものはないというわけである。すべては「労働者」による再建のために取り除けられ、他の人々の固有の歴史や達成は意味を持たないものとなるのである。

昨年カダフィ打倒の熱狂を支持した北側左翼のなかで、リビアにおけるその結末に責任を感じているものはほとんどいないであろう。かれらは「飛行禁止区域」について誤導されたのだと言うのかもしれない。かれらは、NATOの空爆がカダフィの独特な福祉国家や汎アフリカ主義態度を押しつぶしたことによって、何が失われたのかほとんど考えを持ち合わせていないであろう。

同様に、現在のモラルパニックにおいて、シリア国家の誤りではなく、その到達点に関する検討はほとんどないであろう。そして、新たなリビア型の介入がなにをもたらすことになるのか誰も知らないのである。

帝国主義文明のなかで断片化した左翼には、国際紛争になんの影響力もない。しかしそれでも、新しく出てくるそれぞれの「人道的介入」の正当性を掘り崩すように行動することはできるのだ。しかしこれは、「体制変革」の呼びかけと軍事介入への抗議を混同することによって行うことは出来ない。曖昧さのない明快な声明こそ、迫りくる戦争に際して必要なのである。
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