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[リンク記事] 「アラブの春」と西側左翼が求める誘惑
category: - | author: conflictive.info
[リンク記事]ZERO ANTHROPOLOGY 

欧米のリビア侵略についての著書を持ちシリア情勢についても積極的に発言しているカナダの人類学者であるマクシミリアン・フォーテが運営するウェブサイト"ZERO ANTHROPOLOGY"で2013年8月26日に公開されたアイルランドの Donnchadh Mac an Ghoill の文章を翻訳・紹介する。発表された日付から分かるように、著者自身が示唆しているその後のシリアをめぐる動きについては触れられていない。その点で、現時点で読むには物足りないと感じる部分もあるかもしれないが、それでもそのことは、ここまでの事態をもたらした「アラブの春」とはなんだったのか、それを支持した「左翼」とはどういった存在なのかという論考の問いの有効性に大きな影響を与えるものではないと思う。是非多くのひとに読んでいただきたいと思う次第である。なお、末尾の著者紹介は原文に付されたものである。管理人・嶋田頼一

*訳文と注の一部を訂正・補足した。2013/10/15

「アラブの春」と西側左翼が求める誘惑
‎Donnchadh Mac an Ghoill 2013‎年‎8‎月‎26‎日

The “Arab Spring” and the Seduction of the Western Left
http://zeroanthropology.net/2013/08/26/the-arab-spring-and-the-seduction-of-the-western-left/

ホスニ・ムバラクが刑務所から解放され、エジプト軍が再び権力を掌握した――今度はほとんどのエジプト人の支持を受けて。エジプト人は選挙で選ばれたムスリム同胞団が押し付けた混沌にもはや耐えられなかったのである。シリアでは、ムスリム同胞団とその仲間たちは、軍事的には完全に劣勢にあり、アサド政権は圧倒的にシリア民衆の心を掴んだ。イギリス外相のウイリアム・ヘイグと彼の仲間の悪党どもは、シリアに「突入」し彼らが支援する宗派的テロリストを救出するための口実を探しまわっている。私がこれを書いている間に、おそらく化学兵器に関わる怪しげで都合のよい事件が詐欺行為に使われるのかもしれない。チュニジアでは同胞団政権は民衆革命に直面しており、リビアはまったくの混乱状態に陥っている。バーレーンの抗議運動はアメリカの繰り人形である独裁者に弾圧され続けている。要するに、一般民衆の生活は、いわゆる「アラブの春」が2010年12月に始まった時点よりも計り知れないほど悪化しているのである。その「革命」に関するすべてのおしゃべりは無意味なものであったことが明らかになっている――実際にいつもそうであったように。

リビアほどこのことがあてはまる場所はない。労働者はすべての権力と保護を剥ぎ取られ、イドリス王(*1)の統治期に権力を握っていたベンガジの買弁階級が権力を取り戻した。それは革命ではなく王政復古であった。反革命の君主旗と西側帝国主義の武器がそのことをどんな頑固な分からず屋にも明らかにしているのである。

反戦運動が戦争を止められないというのは何も新しいことではない。反戦運動が戦争を止めたという事例は決してない。アメリカで大規模な反戦運動を引き起こしたベトナム戦争でさえ、反戦運動ではなくアメリカの戦争マシンの戦場での現実的な敗北が戦争を終結させたのである。1912年、社会主義諸政党はスイスのバーゼルに集い、もし戦争が始まっても自国政府を支持しないことを誓った。しかし、第一次世界大戦の愛国的宣伝が始まると、ほとんどの社会主義指導者は恥知らずにもその約束を忘れ、労働者階級の若者を大虐殺へと扇動した。こういった一連の失敗を受けて、ヨーロッパとアメリカでは左翼が組織する継続的で活発な反戦運動が数十年も存在し続けてきたのである。2003年にはイラク戦争に反対してワシントンで50万人もの人々が、ロンドンでは100万人の人々が行進し、多くの点で劇的な成功を収めた。たしかに戦争は止められなかったが、そのような大規模な大衆による拒否の意思表示によって帝国主義のプロパガンダマシンは深刻に弱体化させられたのである。今度は、帝国主義の側が大幅に利口に、そして魅力的にならなければならなくなった――そして実際にそうなったのである。

もちろん、いったんリビアへの攻撃が始まると、欧米メディアはいつもやってようなことを行い、リビア政府とその指導者に対して彼らがつくりあげたいまだかつて最も野蛮なプロパガンダを撒き散らした。カダフィが軍にバイアグラを配り、それでリビア兵が非暴力の抗議運動参加者をレイプしてまわったという笑い話があるが、アムネスティ・インターナショナルがこの話を拾い上げ繰り返した。それはドイツ兵がベルギーの赤ん坊を食べたという話(*2)と同様のものであり、あるいはイラク兵がクウェートで保育器から500人もの赤ん坊を投げ捨てたという話と同様である。クウェートには当時50個しか保育器はなかったのである(この話もアムネスティ・インターナショナルが拾い上げ復唱した)。これらの話は結果的に笑い話になるわけだが、敵の流血を求めるメディアの狂騒のなかでは、多くの人々がそれを真に受け、そしてそのことがその戦争を批判する、あるいは反対するどのような試みも弱体化させてしまうのである。いわゆるベンガジ蜂起が始まった当初から、黒人がかり立てられてリンチや焼殺のような拷問に遭っているという話は、まだましな部類であるガーディアンのような欧米紙には伝わっていた。しかし、アメリカの国連大使であるスーザン・ライスは虐殺されている黒人は「サブサハラ(サハラ砂漠以南)からやってきた傭兵」であると言い始めた。それは時宜にかなったもので、メディアは人種差別的虐殺を支持するイチジクの葉を得たのである。それでも、ましな部類の新聞には、虐殺されている人々は兵士ではないという事実は報道され続けていた。彼らは黒人の民間人であり、その多くは移民労働者であったのである。

それでは、こういったことに対する西側左翼の反応はどのようなものであったか。それは1914年よりも恥ずべきものですらあった。少なくとも1914年においては、それぞれの社会主義指導者は自国が攻撃に遭っていると主張することはできた。2011年、リビアが攻撃を受けている際、西側左翼はそのような言い訳を言うことはできなかった。最も破壊的な軍事力が束になって600万人しかいない小国を攻撃していたのである。初めの数日で120もの巡航ミサイルが発射され、NATOの軍用機が2万6000回出撃した。それらを考え合わせると、アイルランドほどの人口の国に、8ヶ月間毎日150回もの空爆が行われたことになる。そしてその間ずっと、西側左翼は社会主義国家が持つインフラの破壊を鼓舞し、人種差別的群衆によるリンチを激励していたのである。著名な思想家であるノーム・チョムスキーでさえ、サラフィー主義者(*3)の役割を矮小化した。反戦団体「アイルランド反戦運動」は学校や病院等の支払いのために使われていたリビアの国家資産の凍結を呼びかけた。そしてそれらの社会的資金をいわゆるリビア国民評議会を武装化するために使うことを呼びかけたのである。リビア国民評議会は、無名者たちの小さな集まりで、その多くは過去20年をアメリカで過ごし、リビアで権力を奪取し、民営化という課題を持ってその国をアメリカの傀儡国家にする訓練をCIAから受けていたのである。どうしてそのようなことが起こったのか? リビアよりも遥かに人権状況が悪かったイラクに対する戦争に反対する大規模なデモがあった2003年以降、西側左翼の倫理的座標軸はどうしてそれほどひどく崩壊したのだろうか(リビアは侵略されるたった数ヶ月前に国連から人権賞を受賞しようとしていた)。イラク戦争では、一般的なメディアプロパガンダの策略がすべて使用された。サダムは野蛮な独裁者である。確かにそうである。サダムは自国民を脅かしている。多くの場合そうである。そして最後に、サダムが大量破壊兵器で西側を攻撃しようとしていると言うのである。まったくのたわごとではあるが、FOXニュースかCNNを見ているような人々――つまり、悲劇的なことに大部分の人々――に対しては十分効果的であった。しかしそれでも、左翼は度胸を持って、その戦争に対する大規模な抗議行動を組織したのであった。

それでは、2011年にこの同じ左翼が、発展途上国では高い生活水準を持ち、国連で幅広い称賛を得ていた人権状況を持つ社会主義国家に対する大量虐殺的、人種差別的軍事行動の応援団になるとどのように予想できただろうか。ましてリビアは先進的な直接民主主義のシステムを持っていたのである。

ここで、私たちは誘惑の技術について議論しなければならない。誘惑は幻想に訴える。それは、彼または彼女の意識の底の願望に対するその幻想を実現させるという約束――偽りの約束である。フロイトが明らかにしているように、私たちはいつも原光景的な幻想に対処している。私たちが子供として残酷にもそこから排除されている場面を見たり、その一部になるという幻想、すなわち、両親の性行為である。それでは西側左翼にとっての原光景とはなにか。私たちが永遠に排除されている喜びと解放の光景とは何か。それは、1917年の冬宮襲撃以外にない。私たちは永遠にセルゲイ・エイゼンシュテインの偉大なソビエト映画「1917年10月」の呪縛のなかにいる。何万もの労働者が行進し、警察や兵士が命令を拒否し労働者に加わり、ツァーの権力の宮殿を雄々しく行進する。これらの光景は実際にはほとんど起こらず、エイゼンシュテインが、その夜に起こった事実というよりも、自らの素晴らしい才能への記念品としてその冬宮襲撃の光景をつくりだしたということは大した問題ではない。これらのどれも大した問題ではない。ここ90年ほどの間、私たちは哀れなピケや行進でもってその原光景を再びつくりだそうとしてきた――そこではオーガナイザーはブルジョア国家の転覆について言及することさえなく、ましてやそれを実行に移すこともないのであるが。しかし突然、西側左翼は自らが幻想してきたすべてを提供されたのである。チュニジアとエジプトで何十万もの人々が――例の映画のように――デモ行進し、独裁者を打倒しようとしている。なんという喜び! 長い間、この種の出来事はレーニンとともに死んだといわれてきた。しかし、それがここわれわれの目の前にあるのである。もしアラブの国々でそれができるなら、私たちにもできるかもしれない。ウォールストリートを占拠せよ。実際、タハリール広場の運動は成功したのでなかったのか。

そしてベンガジがテレビに登場した。独裁者に立ち向かう民衆! これは話ができすぎていたが、しかしそのような贈り物にどうしてケチをつける必要があろうか。私たちにはそれを成功させる必要があり、そうやってここヨーロッパやアメリカの人々に、それが成功裏になし得ることであると示すことができるのである。

誘惑とはレイプではない。誘惑にはその犠牲者との共謀が必要なのであり、犠牲者が誘惑されたいと欲する必要がある。誘惑が発生する条件を決めるのはその犠牲者なのである。そのように西側左翼が誘惑されたいと欲したかたちで、アラブの春は我々の企業テレビに登場したのである。

ジャン・ボードリヤールは、テレビニュースはカラーテレビが登場して始めてポピュラーになったと書いている。多くの人々にとって、ベトナム戦争は黒と白の戦争であった。人々はそれを見るのを耐えられなかった。黒と白は誘惑する。黒と白はいつでも現実より不足したものである。誘惑とはいつでも現実より過小なものなのである。誘惑とは不完全な何かを差し出すのである。あなたは、自分でそのギャップを埋めその絵の創造の共犯者となってはじめて、その絵を見ることができるのである。黒と白は恐怖の中にあなたを引き込む。黒と白はつねに恐ろしく、つねに魅惑的である。カラー付き映像はそういうわけにはいかない。それは現実的過ぎて、現実以上のものとなる。想像力に訴えるものが何もない。不足の部分が無いのである。人々は、テレビの前で冷凍食品の夕食を食べながら、切断された子供の映像を見ても、大変心地よい時間を過ごすことができる。なぜなら、あなたはその恐怖に巻き込まれておらず、誘惑されておらず、排除されているからである。情報の過剰によってそこから追い払われているのだ。

『湾岸戦争は起こらなかった』にまとめられた1991年のボードリヤールの諸論文は、極端に過剰なメディアからの情報摂取が、テレビ視聴者に完全な非現実の感覚をもたらす様子を分析している。これは、コンピューターレベルにまで切り縮められた戦争であった。西側の視聴者にとっては、現実の人間は誰も殺されたり傷つけられることはない。起こっているのは、そういったイメージが生産されているということである。イラクの米軍兵士でさえ、自分たちの活動の殺人的な結果を目撃することはほとんどない。彼らもまたビデオ機器を通じて戦争を見ているのである。

湾岸戦争がカラーテレビの戦争であった一方、「アラブの春」は、誘惑する黒と白の戦争であったということができるかもしれない。2011年2月、ベンガジで紛争が勃発した際、リビア政府は国際的な視察団やメディアに対して、実際に何が起こっているのかを見るためにベンガジを訪れるよう招待した。ほとんど誰もその申し出を受けなかった。そんなことは予定になかった。チュニジアとエジプトがうまく場面設定を行い、そして帝国主義諸国には、CIAおよび湾岸諸国の独裁者と共謀する破壊的で人種差別的なサラフィー主義ギャングが、捕らえた警察官や兵士そして黒人を殺害しているという事実を持ってその場面の邪魔をするつもりはなかったのである。

誘惑は、その場面――喜びの場面――からつねになにかを取り去っている。「アラブの春」はそのような優れた作品であり、どのようなドン・ファンの注目に値する。「反乱者」が誰であり何であるのかというどのような現実的な知識もないまま、西側左翼は共犯になった。彼らは欺かれた。喜んで欺かれたのである。彼らは、欠けている部分を、憎悪される独裁者側のバイアグラを飲んだ兵士に対して立ち上がった民主的な抗議者たちという彼らの夢想で埋め合わせたのだ。NATOの爆撃という脅威の下、ムアンマル・カダフィへの支持を表明するために、100万人ものリビア人が緑の広場を埋め尽くしたということは簡単に見過ごされた。誘惑される人間、誘惑されるというスリルを愛する人間は、真実や事実といったものに何の用もないのである。

だからこそ、無人機や戦闘機の攻撃、そして狂乱した暴徒によってムアンマル・カダフィが残酷に殺害された後ですら、西側左翼の錯乱状態は続いた。彼らは、タハリール広場がヨーロッパとアメリカ中で自発的に発生するという夢を見続けた。ファシストムスリム同胞団がエジプトで権力に手をかけ、ムバラクが行ったよりも奴隷的なほどに、アメリカとイスラエルの国益に奉仕し始めているときでさえである。

何かを達成するという点でオキュパイ運動が完全に失敗した後の現在でも、西側左翼のなかには欺かれ誘惑されている愚か者がいる。かれらは、シリアにおけるCIA/モサドに支援を受けた宗派的ギャングを支持し、エジプトのムルシ政権の排除を嘆いているのである。

それでは、私たちはいまどこにいるのだろうか。1873年、西側資本主義システムは大規模な金融崩壊によって破壊された。そのシステムは、そのシステムを回復させるためのどのような巨大な量の現実的な富を残しはしなかった。答えは非常にシンプルなものであった。1873年には、アフリカ、アジア、または北アメリカは相対的にはほとんど帝国主義の支配下になかった。次の10年、それまで知られていた中で最も大量殺戮的な帝国主義的拡張が起こった。北アメリカのすべてが征服され、原住民は追い立てられた。アフリカ争奪戦は、1300万の人々が殺害された言語に絶するベルギーのコンゴ蹂躙を含んでいる。またロスチャイルド家に資金を供給され、大英帝国という血生臭い名の下に実行されたセシル・ローズによる大量虐殺的な南アフリカ征服を含んでいる。1890年代には、西側資本主義の崩壊は、かつてない好景気へと転換した。そして急成長する諸帝国がお互いの征服を欲深く眺めるなかで、第一次世界大戦が準備された。1930年代に、ドイツと日本は深刻な経済不況から脱け出すために植民地主義的征服に着手し、結果は第二次世界大戦となった。また、アメリカの大恐慌は、第二次世界大戦が始まり、大英帝国が武器の支払いのためにすべての金準備をアメリカに譲渡するまで終了しなかったことが知られている。今日、西側資本主義は1873年よりもさらに破滅的な崩壊に直面している。そして再び、危機への回答としてアフリカ征服が開始されているのである。その第一段階として誰よりもまずはじめに殺害されたのは、アフリカ統一のために帝国主義支配に対して闘ったムアンマル・カダフィ大佐だったのである。

シリアはなんとか自国の領土と主権に対する攻撃を押し返しているが、西側帝国主義とその周辺諸国の同盟国の攻撃に晒されたままである。上に書いたように、アングロサクソンとフランス帝国主義の戦争レトリックは、アルカイダ/アルヌスラの一団の敗北の規模に比例して常軌を逸したものになっている。イランは犯罪的な経済制裁下にある。朝鮮民主主義人民共和国やキューバも同様である。ロシアと中国は西側メディアに絶え間なく攻撃を受け、帝国主義勢力の軍事的包囲に遭っている。私たちは第三次世界大戦に直面している。第二次世界大戦が戦われたのと同じ理由、資本主義システムの金融的崩壊から逃れる試みとして。

私たちは自信を持って西側左翼の指導者たちに期待することができるであろうか。あるいは私たちは1914年の裏切りを単純に繰り返してしまうのだろうか。はっきりしているのは、2011年の誘惑を克服する能力のある指導部が必要だということである。私たちが率直に認めなければならないのは、左翼がその分析において完全に誤っており、左翼が現在持っているものよりも遥かに上回る技術によって敵に裏をかかれているということである。善きものから腐敗を淘汰することから始めなければならない。私たちには、マジョリティのヒステリーに動揺しない人々が必要である。マジョリティは、いつもではないにしても、しばしば完全に間違うことを率直に認める人々が必要である。このことは簡単ではないだろう。西洋人には、すべての社会階級に渡って、もし西側世界による第三世界の支配が終わってしまえば、彼らのすでに脅かされている生活様式は、完全な崩壊ではないにしても被害を受けることになるという強い信念がある。実際、経済を回復させるために、これらの帝国主義戦争が西側が持ちうる最善策であるという暗黙のコンセンサスがあるのである。左翼はこのコンセンサスに挑戦することに失敗しているだけでなく、言葉においても行動においてもその一部となっているのだ。おそらく、西側文化は活動的で価値のある左翼を生み出す生命力をもはや失っているのかもしれない。これは私たちがよく考えなければならない可能性である。

アラブの人々は、2011年に起こったことを「アラブの春」とは呼んでいなかった。彼らが1919年に起こったことを「アラブの春」と呼んでいなかったのと同様に(*4)。「アラブの春」とはつねに西側帝国主義に属していたイメージであり、その言葉が喚起するロマン的で、アラビアのロレンス的な諸観念に西側住民を誘惑するために使用されたのである。アラブの春はアラブ世界で決して起こらなかった。それは私たちの西側の想像界においてのみ起こったのである。

訳注

*1 イドリス王は、1951年 - 1969年のリビア元首。英米と緊密な関係を維持し、1969年のカダフィの無血クーデターにより亡命。

*2 1914年のドイツのベルギー侵略時に流されたイギリスによる反ドイツプロパガンダ。

*3 修正中 2014/06/05

*4 1919年には、チュニジアでは停止された憲法の復活を求める抗議運動が広がった。エジプトでは、イギリスによるエジプト支配に対する独立運動が起こった。イタリアの植民地であったリビアでは、独立運動家の努力によって1918年トリポリを中心としたリビア西部地域においてトリポリタニア共和国の独立が宣言され、1919年のパリ平和会議においても正式に宣言された。しかし、国際的に支持が得られなかったこととイタリアの介入により、1923年に崩壊した。

Donnchadh Mac an Ghoill は1964年にアイルランド西部のメイヨーで生まれた。ベルリンとロンドンにも住んだことがある。ダブリンのトリニティカレッジで初期および近代アイルランド語の学位を、また精神分析の上級学位を取得している。普段はアイルランド語で執筆している。3つの戯曲があり、そのうちの1つは2年前に受賞した。ほかの家族とともに、Sóivéid James Connolly を設立し、アイルランド語やバグパイプの講座、週に一回のコメディクラブや自家醸造、コミュニティガーデン、そしてウェブサイト Soviet.ie を運営している。また彼らとともに、1916年に宣言された全アイルランド共和国を念頭において Pairtí Cummanach na Poblachta(アイルランド共和国共産党)を設立した。党を設立したおもな理由のひとつは、世界中の反帝国主義者との関係を発展させ、アイルランドの人々にマルクス主義と反帝国主義組織の一員となる機会を提供することである。
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